資料No. SA-0009
侍アーカイブ
真田信繁(幸村)
Sanada Yukimura
大坂の陣の英雄

第一章 — 人物概要
| 氏名 | 真田信繁(幸村) |
|---|---|
| 英名 | Sanada Yukimura |
| 出身 | 日本 |
| 生没年 | 1567–1615 |
| 性別 | 男性 |
| 世紀 | 17世紀 |
| 家・役職 | 軍師 |
| 肩書 | 大坂の陣の英雄 |
第二章 — 経歴
1567年、信濃国に生まれる。智将・真田昌幸の次男として、父が二度に渡り徳川を撃退した上田城防衛戦のもとで育った。関ヶ原で真田家は分裂し、兄・信幸は東軍、信繁と父は西軍に付いた。
敗戦後は十四年間を高野山九度山で蟄居して過ごした。1614年、豊臣秀頼の招きに応じ大坂入城。冬の陣で大坂城南に「真田丸」と呼ばれる出丸を築き、徳川の先鋒三隊を翻弄して史上に残る防衛戦を演じた。
翌1615年夏、外堀埋めののちの最終決戦・天王寺口で、三千の赤備え騎馬隊を率いて家康本陣めがけ突撃。家康の馬印は二度倒れ、家康自身も自害を覚悟したと伝わる。同時代の敵味方双方が「日の本一の兵」と讃えた最期の一陣であった。
数刻後に討ち取られたが、その時点で伝説は確定していた。
第三章 — 年表
第四章 — 名言
“武士は野に倒れて死ぬべきもの、畳の上で死ぬのは死とは申さぬ”
第五章 — 逸話
[A]赤備えの最後の突撃
1615年5月7日、信繁は人馬・旗指物すべてを真田の朱に染めた三千騎で家康本陣に突撃した。家康の馬印は二度倒れ、家康は腹を切る覚悟をしたとも伝わる。最終的に力尽き討ち取られたが、伊達政宗は後にこう詠んだ。「日本一の兵、百年に一度の人」と。
第六章 — 影響と遺産
信繁は日本文化における「敗れざる英雄」の原型となった。江戸期の歌舞伎・軍記物で「幸村」の名が定着し、現代に至るまで『戦国BASARA』『信長の野望』『真田丸』『SHOGUN』など創作の中心人物であり続ける。
第七章 — 主な功績
- [01]上田城防衛戦(1600)
- [02]真田丸築造(1614)
- [03]天王寺口突撃(1615)
- [04]兄・信幸の系統に伝わった真田流軍学
第八章 — 参考資料
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
真田家文書
上田市立博物館・松代真田宝物館 所蔵
信繁を含む真田一族の伝世古文書
- 学術文献
真田信繁
平山優 / KADOKAWA (2015)
近年の通説を踏まえた決定版
- 公的所蔵
おすすめ書籍
第十章 — 関連レポート
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大坂・天王寺口の最後の突撃——真田信繁の最期
1615年5月のある午後、三千の赤備え騎馬が日本最大の軍勢に突撃し、家康をあと一歩で追い詰めた。すでに伝説だった男が、その日に成したことは、以後すべての「敗者の英雄」の原型となった。
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伝説より長く生きた兄——なぜ真田信之は九十二まで生きたのか
真田信繁(幸村)は1615年、大坂で英雄として死んだ。兄・信之は関ヶ原で徳川側に付いた。弟より四十三年長く生き、明治まで続く家を築いた。この対比は武士の忠誠が実際に何を要求するかを語る。
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道明寺の戦い——後藤又兵衛は幸村の前日に死んだ
1615年5月6日、大坂夏の陣の前哨戦・道明寺の戦いで後藤又兵衛は戦死した。徳川軍三万に対し、又兵衛勢二千で半日持ちこたえた末の最期。真田幸村が天王寺口で戦死する前日のことだった。
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大坂浪人衆五人衆——なぜ秀頼は浪人を集めたのか
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