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SUBJECT FILE NO. IJM-0043

CLASSIFICATION: HISTORICAL ARCHIVE

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ

Johann Sebastian Bach

作曲家・オルガニスト

SECTION I -- 人物概要

氏名ヨハン・ゼバスティアン・バッハ
英名Johann Sebastian Bach
出身国ドイツ
生没年1685–1750
性別男性
世紀16–18世紀
分野音楽
肩書作曲家・オルガニスト

SECTION II -- 経歴

1685年、中部ドイツのチューリンゲン地方アイゼナハに、町の楽師長を務める父ヨハン・アンブロジウスのもとで生まれたヨハン・ゼバスティアン・バッハは、一世紀以上にわたってドイツの教会や宮廷に音楽家を送り続けてきた大家系の末裔であった。幼い頃からヴァイオリンや声楽の手ほどきを父に受け、オルガンと合唱に満たされた日常の中で育ったが、10歳を待たずに両親を相次いで失い、オルガニストであった兄ヨハン・クリストフに引き取られて鍵盤音楽の手写本を貪るように学ぶ日々を送る。

最初の転機は1705年、20歳で務めていたアルンシュタットの教会を離れ、北ドイツの大オルガニスト、ディートリヒ・ブクステフーデの演奏を聴くために片道400キロ以上を徒歩で旅したことだった。与えられた4週間の休暇を4か月に引き延ばして帰郷した彼は、壮大な和声語法と揺るぎない独立心を身につけており、その後ヴァイマル宮廷のオルガニスト、ケーテン宮廷の楽長として器楽作品の金字塔『ブランデンブルク協奏曲』『平均律クラヴィーア曲集』『無伴奏ヴァイオリン・ソナタとパルティータ』を次々と生み出していく。

第二の転機は1723年、ライプツィヒ聖トーマス教会のカントルに就任した時である。市内四教会の音楽を統括する激務のなか、礼拝暦にあわせて200曲を超えるカンタータを書き続け、『マタイ受難曲』『ミサ曲ロ短調』『ゴルトベルク変奏曲』『音楽の捧げもの』といった人類史に屹立する傑作を残した。晩年は視力を失い、旅先のイギリス人眼科医による二度の手術が裏目に出て1750年にライプツィヒで65歳の生涯を閉じるが、その後80年近く忘れられた彼の音楽は、1829年にメンデルスゾーンが『マタイ受難曲』を復活上演したことで再び光を浴び、以後モーツァルト、ベートーヴェン、ショパンらが仰ぎ見る西洋音楽の礎として、今も聴き継がれている。

SECTION III -- 年表

1685アイゼナハに生まれる
1708ヴァイマル宮廷オルガニストに就任
1717ケーテン宮廷楽長となる
1723ライプツィヒ聖トーマス教会カントルに就任
1741『ゴルトベルク変奏曲』を出版
1747フリードリヒ大王に『音楽の捧げもの』を献呈
1750ライプツィヒにて死去(65歳)

SECTION IV -- 名言

私は書かれている音符を弾くだけだ。音楽を奏でるのは神である。

音楽は神の栄光のため、そして魂の許された喜びのための、心地よい調和である。

SECTION V -- エピソード

[A]400キロを歩いた巡礼

1705年、20歳のバッハはアルンシュタットから北ドイツのリューベックまで、伝説のオルガニスト、ブクステフーデの演奏を聴くために徒歩で400キロ以上を旅した。許された休暇は4週間だったが4か月も不在にし、帰郷後は教会当局の激怒を買ったが、その音楽語法は永遠に変わっていた。

SECTION VI -- 影響と遺産

バッハは対位法の厳格さと感情の深さを融合させ、西洋クラシック音楽の礎を築いた。1829年のメンデルスゾーンによる『マタイ受難曲』復活上演で再評価され、以後モーツァルト、ベートーヴェン、ショパンをはじめ後世のあらゆる作曲家の創造の源泉となり続けている。

SECTION VII -- 代表作・主な功績

  • [01]ミサ曲ロ短調(1749年)
  • [02]ブランデンブルク協奏曲(1721年)
  • [03]ゴルトベルク変奏曲(1741年)
  • [04]平均律クラヴィーア曲集(1722年、1742年)
  • [05]マタイ受難曲(1727年)

SECTION VIII -- 参考資料

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